「カピタン・アラトリステ」シリーズと映画「アラトリステ」の背景知識と翻訳裏話


by KATO Kosei Ph.D
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今夜はトレドです

 NHK総合午前零時より

「世界ふれあい街歩き:輝く古都トレド」 

 2巻ではこの街に拉致られた●●●が酷い目に遭います。
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by waka_moana | 2006-08-30 10:38 | 文化
 この記事は17世紀初頭のスペインに関するお話です。

 「カピタン・アラトリステ」シリーズ翻訳の為、当時のスペイン社会についても色々と調べているのですが、戦争大好きな国家が社会の内部に格差を抱えていると、徴兵制なんか無くても事実上の徴兵制みたいになっちゃうんだなあ、というのがしみじみ理解されました。

 謎の男アラトリステが何故軍人になったのか。それは隠されたままですが、イニゴくんが何故軍人になったのかは明白です。「他に食べていく術が無かったから。」彼だけではありません。実は当時、スペインの軍事力を支えていた人々のほぼ全てが「故郷に生業が無かった」人たちでした。

 当時の軍隊に参加している人々には二種類がありました。そう、貴族階級出身者と平民の出身者です。貴族階級出身者は士官になりました。少尉以上の軍人はだいたい貴族階級出身者です。平民出身の古参兵の叩き上げが望める一番上の階級が軍曹あるいは准尉でした。

 貴族階級出身者で軍人になっていたのは、家そのものが傾いて地代収入や年金では暮らせない没落貴族か、家そのものは安泰だけれども家督と財産と爵位は嫡男(普通は長男)が総取りするので、外に働きに出るしかない次男以下の連中でした。こういった連中はいつの時代も茨の道を歩むのですなあ。かのシャーロック・ホームズも仕事が無くてロンドンに出てきた次男でしたね。

 平民階級出身者で軍人になっていたのは、やはり家業を継承出来ない次男以下の連中。あるいは耕作地が(戦場になるなどで)荒れ果てて農業が続けられなくなったとか、職人修業はしてみたもののギルド内で流通する限られたポスト(親方株)を手にすることが出来なかったとか。そういう人たち。

 つまり、軍隊に参加しないと生活出来ない人たちですね。他に行き場が無かった。あとは893になるか、新大陸で先住民の財産を強奪するかみたいな。

 ここで注目していただきたいのは、上記諸事情の殆どが「予め生業を奪われていた」というケースに該当するってことね。生まれた瞬間に敗北者コースが確定していた。社会の最底辺に行くことが生まれた段階で決まっていて、階層上昇を果たすには軍隊で手柄を上げて出世するか、国外で一旗揚げるかしか無かったわけです。そして、こうした「軍人になるしかないぞ階級」は再生産され続けました。つまり軍人の子は親から引き継ぐべき生業が何も無いので、物心付いたら戦場に出て金目のものを掠め取って生きるしか無く、やがては親と同じく軍人となっていった。イニゴくんがそうじゃないですか。父親は戦場で戦死し、しかし国家による遺族年金なんてものも無いので、物心ついたら即戦場行き。

 実は現在のアメリカ合衆国もそんな感じなんですね。中流階級以上の子弟は普通は軍人になんかならない。なるとすれば士官学校を出て士官になる。現代の戦争で士官以上と下士官以下の兵士の死傷率は笑っちゃうくらい違いますからね。最前線に出る軍人になるのは下層階級の子弟ばかりです。取りあえず食いっぱぐれは無いし、戦場に出て生きて帰れば大学の学費を国が出してくれるので。大学くらい出ていないと中流階級にはなかなかなれない国ですからね(博士課程まで出ると下層階級に逆戻りしがちなのは米国も日本も同じ)。

 以上、徴兵制なんか無くても、生まれた時点で勝ち負けが決まる社会にしておけば兵隊のなり手には不自由しないというお話でした。
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by waka_moana | 2006-08-30 00:11 | 文化

地図どうしよう

 昼飯を食い終わってジョン・マクラフリンのLPを聴きながら『地球温暖化の真実』という本を読んでいたら、O内から電話が入りました。

 3巻の地図どうしましょうというご相談。

 3巻の舞台はネーデルラント南部、いわゆるフランドル地方です。隊長たちはブレダという城市の攻囲軍に加わっており、ブレダ解囲を目指すマウリッツ・ファン・ナッサウ率いるオランダの大軍と死闘を繰り広げるというお話。

 ならブレダ近郊の地図があれば、と思うのですが、どうもレベルテの旦那は架空の地名を使っているらしく、戦場が図示出来ないんですわね。
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 O内なんかは例によって「指輪物語」みたいな地図があればとか言うのですが、あれはちゃんと作者が設定作ってくれたから出来た地図であってね。主人公の故郷の設定さえ作っていなかった人が戦場の詳細な地図なんか作ってあるとは思えないのですよ。

 じゃあ当時のフランドル地方の地図を出せばどうだろうかとも思うのですが、あの国・・・・地方って海岸線の場所とか形とかガンガン変化してそうじゃないですか。現在の地図をそのまま使えるものかどうか。リサーチするにしてもこのタイトなスケジュールだと、なかなか厳しいのではないか。

 悩ましいところです。地図の希望そのものは多いみたいなのですがねえ。個人的には西ヨーロッパの地図をバシッと出して、ブレダ、アムステルダム、マドリ、トリノ、ジェノバ、ウィーン、ファルツ選帝公領あたりに印つけとくか、とか思っています。
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by waka_moana | 2006-08-29 00:15 | 翻訳作業

reconquista→1492→conquistador

 アラトリステ隊長の中の方がレオン市の名誉市民になるそうですね。

 しかし、日本でレオンといえば普通は元大洋ホエールズのレオン・リー。お兄さんはレロン・リーといいましたね。他に有名なレオンってありましたっけね。無いよね? 

 しかし、スペイン王国でレオンといえば、これはそれなりに重大な名前なんですね。なんせほら、もともと今のスペイン王国の元祖はアストゥリアスのあたりからせっせと南に領土を広げてアストゥリアス王国、レオン王国、カスティージャ王国、スペイン王国と膨張していったわけですからね。ご存じでしたか? スペイン王国の王太子は「アストゥリアス公爵」を名乗るって。イングランドの皇太子が「ウェールズ大公」を名乗るのと同じですが、スペインの場合は王国発祥の地という意味合いもある。

 そのレオン方面から南へ南へと領土拡大していったあの運動を「レコンキスタ」といいます。日本語にすれば「再・征服」。かつてゴート族として征服したイベリア半島をもう一度征服するぞって話でしょうか。

 これが終わったのが1492年ですね。グラナダ陥落。

 ところでこの年、カスティージャのイサベル女王から資金提供を受けて出航した冒険家がおりました。ご存じコロンブス。スペインではコロンColonと呼ばれております。この方がその存在をスペインに伝えたことから始まったのがスペインのアメリカ征服。これに邁進した郷士(自称含む)のみなさんを「コンキスタドーレス」と呼びますね。「征服者たち」。

 左様。要するにレコンキスタとコンキスタドーレスは同じ運動、非キリスト教徒の土地を切り取り強盗しに行く運動の前半と後半だったわけです。

 ちなみにバルセロナの旧市街にある(冴えないという噂の)「王の広場」。あの広場を取り巻く建物は一応宮殿なのですが、イサベルとフェルナンドがコロンブスから西インド諸島到達の報告を受けたのがあそこだったそうです。

 さて、ユーロの150円突破はもはや目前。これはしばらく欧州方面には行けないぞという方にお勧めのアルバムがこれ。

Chieftains "Santiago"
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 これは面白いアルバムですよ。アイルランドの伝統音楽の大御所が「サンティアゴ巡礼路」をテーマに制作したアルバムなんですが、なんとアルバム後半はラテン・アメリカ音楽が大胆に取り入れられているんです。要するにそういうことです。
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by waka_moana | 2006-08-26 21:55 | 文化

その気持ち、わかるぞよ

 「カピタン・アラトリステ」シリーズの翻訳作業で私個人の筆が一番進むところはどこか。戦闘シーンではありません。ラブシーンでもありません(そんなシーン出てこないし)。

 実はケベード先生です。

 ケベード先生が悪態をついているところが一番ノリノリです。

 もちろん私はケベード先生ほど喧嘩上等ではありませんが、学会発表などでは何故か「皮肉の効いた話術」で知られているようです。皮肉というか、ダメなものをはっきりダメというのも気の毒なので、遠回しに柔らかく「あれはダメですね」とご説明申し上げているだけなのですが。

 なんせプロの研究者(研究者として商売をしている研究者)ではないですし、プロになる気もあまり無いので、比較的言いたいことが言えてしまう私ですが、それでも言及するのを憚られる筋というものがあります。

 巨匠大家のたぐいではありません。そのたぐいの先生方はどこの馬の骨とも知れない翻訳家が何を言おうが痛くも痒くもありませんから、結構何でも言えるのです。むしろヤバいのは、プロの研究者になりたくて、でもなかなかポストが得られなくてテンパっておられる方々ですね。こういう方々は心に余裕が無いですから、ちょっかいを出すと本当にヤバいです。何をされるかわかりません。

 ですから私は徹底的に避けて通っているのですが、でもたまにうっかり目に入ってしまうと、「ああ・・・」と思うわけですよ。何が「ああ・・・」なのかはもちろん秘密ですけどね。

 そういう「ああ・・・」がそれなりに溜まっている時にケベード先生のシーンが来ると、正直、わくわくします。普段言いたくても言えないことをケベード先生が全部言って下さるので、スカっとします。すなわち「中身は無いけれどもレトリックだけ異常に凝った詩を作っては、作風が同じ仲間だけで褒め合っている」とか、「他人の作品をけなすばかりで一向に自分の作品を創ろうとしない」とか、あのあたり。

 まあ、ケベード先生が詩人や劇作家の類を罵倒している下り、私の頭の中には具体的な学者の名前が三つ四つは浮かんでいますね。必ず。お恥ずかしい話です。
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by waka_moana | 2006-08-25 00:17 | 翻訳作業

見当たらぬ

 いよいよ本国での映画の公開が迫ったようで、渡西する人々が出始めたようですね。「アラトリステ」。史上最高のユーロ高+原油高(による航空運賃割り増し)+首締め強盗再ブームの三重苦をものともせず。いやまじでユーロ高すぎですよ。

 さて。せっかくプラド美術館を訪れるのであれば、是非とも見てくるべき名画がもちろんありますね。「ブレダの開城」。噂ではこの絵のどこかに隊長が描かれているそうですからねえ。馬の後ろとかなんとかイニゴくんは1巻1章で書いていますが・・・・。果たしてどれが隊長なのかは、これはもう皆さんの心眼がいかにモーテンセン先生一色に曇っているか次第ですね。

 ところで1巻2章です。イニゴくんがアンヘリカちゃんの思い出に浸る箇所。ここでイニゴくんは確かに「ベラスケスが成人したアンヘリカの絵を1635年頃に描いた」と言っています。頃というのは美術館ではcirca 1635となります。

 話を戻して、しかし色々調べてはいるんですが、イニゴくんが言っているのがどの絵のことなのか、皆目わからんのです。1635年といえばベラスケスは「ブレダの開城」を完成させた年。既にイタリア留学からも戻って、王室画家としても王付きの官僚としても脂が乗りきった時期です。が、この頃の彼の絵で有名なのは、だいたいがむさ苦しい男ばかり描かれた作品なんですよ。あるいは王子様とかね。

 生涯でわずか120点ほどしか描かなかった(官僚としての仕事が忙しかったので)人ですから、もしも実在の絵なら、だいたいどれかわかるはずなんですが。これはレゾネを確認するしかないのかな。イニゴくんは「有名な絵」と言ってますよねえ。ううむ。

 というわけで、もしもプラドにてそれらしい絵を発見された方、デジカメで撮るのは止めて(絵が傷むので)、タイトルだけ私に是非教えてくださいまし。
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by waka_moana | 2006-08-23 01:30 | 文化
 「カピタン・アラトリステ」シリーズでは、登場人物がたまにカルタ賭博で盛り上がるシーンが出て参ります。特に2巻では●●●●●●●●●と●●●●●がビクーニャの賭場で密会するシーンなんかもあったりして、なんか大人の雰囲気って感じですな。
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 そのカルタ(邦訳では日本語の慣例に従って「トランプ」としていますが)、現在私たちが知っているあの「トランプ」とはデザインが少し違うみたいです。日本で普通「トランプ」といえば「スペード、ダイヤ、ハート、クラブ」で、なんでしたっけ、なんかそんなデザインの奇天烈な扮装をした戦隊がいましたね。ゴレンジャーか? 
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 なのですが、当時のスペインで使われていたのは剣、聖杯、コイン、棍棒だったようです。ネット上でそれらしい画像を拾って来ました。剣がスペード、聖杯がハート、コインがダイヤ、棍棒がクラブへと簡略化されたわけですね。それぞれ騎士、聖職者、商人、農民を象徴するなんて意見もあるようですが、詳しいことは藪の中です。
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by waka_moana | 2006-08-19 17:59 | 文化

使い回し

 みなさまは「アルゴナウタイ」という言葉をご存じですか? 「イアソン」とか「金の羊毛」でも良いです。

 お。「金の羊毛」に反応した人がおりましたね。ああそうか、「金羊毛騎士団」というのが出てきますからね。ナイツ・オブ・ザ・ゴールデンフリース。カタカナで書くとユニクロの黄色いフリースを来たカラーギャングみたいっすな。

 「金羊毛騎士団」の名前のもとになったのが、ギリシア神話に出てくる英雄イアソンと彼のガレー船アルゴ号。このアルゴ号に乗り込んだ勇士たちが「アルゴナウタイ」。

 昨日から南太平洋をタヒチ目指して旅する冒険野郎どもの物語の単訳本の最終校正に入っておりまして、我らが隊長はネーデルラントでマウリッツ・ファン・ナッサウの大軍を迎え撃ったまま放置されています。ごめんよイニゴ。あと4日間持ちこたえてくれ。

 さてさて。実はですな。「アラトリステ」の3巻とこの単訳本、どちらもイアソンだとか金の羊毛だとかいう比喩が登場するんですよ。欧米人にはすぐになんのことかわかるのかもしれませんね。でも日本じゃああまり知られていないこの話。すいません、南太平洋本で書いた訳注を多少書き直したものを「アラトリステ」にも使ってしまいました。だって一から書き起こしても内容殆ど同じなんだもん。

 南太平洋本は来月発売です。「アラトリステ」2巻と同時だったりして。どちらも本当に良い本なんで、是非とも読んでみてください。読んでみて、また読もうと思ったら買ってくださいね。
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by waka_moana | 2006-08-18 11:56 | 翻訳作業

Pre Delivery Inspection

「プレ・デリバリー・インスペクション」略してPDIという言葉をご存じでしょうか? 工業製品の販売前点検のことです。特に有名なのは輸入車の陸揚げ後の点検で、ヤナセやフォルクスワーゲン、BMWなどはいずれも巨大なPDIセンターを持っています。

 さて。最近は輸入車も製造品質が上がったので、そこまで過激ではないかもしれませんが、1970年代や80年代などは、このPDIセンターで一度完全に分解して車を組み直すということが当たり前に行われていました。何故なら、輸入したままではほとんど車の形をしたガラクタみたいなもので、いつどこが壊れるものかわからなかったからです。だからより厳しい基準で再生産していたんですね。

 ちなみに現在でもFで始まる赤くて平べったい高級外車など、PDIセンターで完全再塗装される車が数割あるそうです。そこまでやらなくても、日本という土地の法律と気候に合わせた改修はどこでもしています。でないと商品として一般消費者に渡せない。

 ところで翻訳の世界は面白いものでして、原文に欠陥があればその欠陥を忠実に訳文に反映させるべきという立場と、PDIと同じく欠陥品は水際で全て跡形もなく改修しなければいけないという立場があります。まあこの他、翻訳前はまともなものだったのが、翻訳後は箸にも棒にもかからない大欠陥品になっていたみたいなケース(学者による研究書翻訳の相当数と字幕翻訳や吹き替え翻訳の一部)もありますが・・・・

 「カピタン・アラトリステ」翻訳チームの中で欠陥の改修に躊躇しないのは私です。とことんやって良いと言われたら本当に全分解して別の車に再構成してます。元の設計でも一応動くけど、こちらの設計のが遙かに良いと思ったら躊躇い無くやります。

 そうでない立場の人ももちろん翻訳チームの中にはいます。どの意見が通るかというと、実は決まったルールはありません。各自の忙しさとか気力、タイミング次第で結構変わります。面白いものですねえ。

 余談ですが、学者翻訳が駄目な理由の一つに、「ゼミ生に輪読で翻訳させたものを、先生が訳語の手直しだけちゃちゃっとやって、自分名義の訳書として出版してしまう」というなかなかに巫山戯た真似をする人がいっぱいいるからというものがあります。大学の先生が出した訳書は中身を充分吟味してから買うことをお薦めします。
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by waka_moana | 2006-08-17 07:58 | 翻訳作業

sauve qui peut

 「カピタン・アラトリステ」はご存じのように戦争ものでもあるので、翻訳作業でもそちら関係の知識が結構重要だったりします。前回紹介した銃の使い方もそうですが、陣形とか戦史、軍隊組織などなど、女性中心の翻訳チームではなかなか扱いづらいジャンルです。

 その点、私はミリタリーマニア上がりだし、エアソフトガンなら過去に10丁以上所有していたし、シミュレーションゲーム(ボードゲーム)も沢山持っているし、割とそういうのは得意だったりするのです。特に詳しいジャンルは第二次世界大戦の東部戦線ね。ドイツ機甲師団の電撃戦、ロシアの冬将軍、春の泥濘、スターリングラードやレニングラードの包囲戦。T34戦車。モーゼルKar98K小銃。斬り合いのシーンについては、チャンバラ小説をもっと読んで語彙を仕入れておいたほうが良かったかと思うのですが。

 さて、今日ご紹介するのは、「逃げられるものは逃げよ」という表現。2巻の最初の方で出てきたのかな。もっと上流の工程では何のことか分からなかったようですが、これ、壊滅しかけた部隊の指揮官が兵士たち最後に出す命令のことです。

 これって一種の決まり文句なんですね。部隊が壊滅して作戦行動が不可能になった時点で指揮官が下命するわけです。「諸君は充分に兵士としての義務を果たした。我が部隊はここで解散する。諸君は可能ならば生き延びよ。」

 あとは兵士個人の才覚で落ち延びるなり、捕虜となるなり、最後まで戦うなり、好きにしろと。ただし君たちはもう義務を果たしたのだから、あとは生き延びることを最優先にして行動しろと。生きて故郷に帰って子供を作り、育てろと。

 普通の軍隊じゃなかったとある国の軍隊は、「戦陣訓」なる不気味なものをこしらえて、前線の指揮官がこの命令を下すのを阻止してしまったわけですが(怖)。・・・・・・そういえば、一歩間違えれば私の祖父もミンダナオ島の土になってたんだよなあ。その祖父は死期が迫った時、自分の従軍経験を子孫に書き残して逝きました。『比島敗走記』という自費出版本になって、国会図書館にも納本されています。それにしても、祖父が某軍国主義カルト教団に祀られる羽目にならなくて本当に良かったぜ。ちなみに祖父の手記には、敗走の途中で体力が尽きて部隊についていけなくなった戦友と別れる場面が出てきます。二人はこう言葉を交わします。

 「わかった。お前は一足先に富山に帰れ。」

 つまり死んで富山に帰って待っていてくれということです。ええ、「靖国で会おう」なんて台詞は出てきませんとも。彼らはそれほど間抜けでは無かった。彼らの心中にあったのは故郷の富山の山河でした。

 現在私のところに来ている3巻『ブレダの太陽』も、戦場の悲惨をこれでもかと描くお話です。イニゴくんはここで、隊長がかつて何を見聞きして来たのかを目の当たりにするわけです。

 この巻でも、やはりこの表現は登場します。

 「諸君は可能な限り生き延びよ」

 イニゴくんは、マウリッツ・ファン・ナッサウの主力部隊と直接当たる自分たちの部隊がそういう状況に陥るという可能性を目の当たりにして、最前線に向かう途中で恐れおののくのですね。

 「生き延びよ」

 これは、とっても重い言葉なんです。戦場では。多分。実感したくはないですが。でも、そういう言葉さえ飲み込ませた軍隊がかつて存在したというのは、なかなか体感気温を下げてくれるホラーです。そういう軍隊はホラー映画の中だけにしておきたいものです。
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by waka_moana | 2006-08-15 20:15 | 翻訳作業