目指せ日本ファンタジーノベル大賞
2019年 04月 06日
仕事の合間にラノベを書いています。
4章を書き終わって5章に入ったところです。
4章では主人公が最初の旅の仲間たちである二人の傭兵と出会い、これを口説きます。この二人のモデルは明確で、ディエゴ・アラトリステとイニゴ・バルボアです。もちろん名前は変えてありますが、生い立ちや二人の関係は裏設定として全て継承して書いています。
この章で苦心したのは、どうやってアラトリステに仕事を受けてもらうかというところです。
彼が軍の外で動くのは「事件に巻き込まれてやむを得ず」というパターンか、「仲間に懇願されて仕方なく」というパターンばかりですが、今回の仕事は巻き込まれてもいないし、主人公はアラトリステの仲間ではないので、懇願も通じません。
また、主人公は王室の勅命で動いているので、それなら戦闘要員としては正規の武力である近衛兵を使えば良いんじゃないですか、何で傭兵を使うんですかという疑問が生じます。
ですが、ストーリーの展開上、主人公も現時点ではこの疑問に対しての明確な回答を持っていません。
理由を上手く説明出来ないのに、あの気難しいアラトリステを雇えるだろうか?
しかし、ここでアラトリステを口説けなければ話は進みません。もっと単純で「暴れられればOK」の、モモタロスみたいな傭兵では、この先で描く予定の、政治的な駆け引きまで織り込んだ戦闘は展開出来ません。
さあ、どうするか。
アラトリステがどういう人間であるかは、私は日本で一番深く理解しているという自負があります。こういう話をすれば、こう反応する、こう考えるというのは全てわかる。ここからはまさに挑戦、勝負でした。どういう風に話をしたらアラトリステが諾と言ってくれるかを考え、そのように主人公に話をさせ、それを受けて(勝手に自分の中から)出てくるアラトリステの言葉を書き、さらにそれを受けて主人公に話させる。書いていても、最終的にアラトリステがOKと言うかはわからないんです。本当に。作者権限でOKと言わせることも出来ない。彼が納得してくれないと。
途中、アラトリステと主人公は睨み合いにもなりましたが、最後は何とか納得してもらえました。
そして5章。主人公は連日、官庁街に通って築港事業の関連資料を精査しています。たぶん6章でようやく首都を離れることになると思いますが。
ファンタジー小説ってこういうものだっけ。
あ、でも映画版ではアラトリステの中の人はアラゴルンの中の人と兼任だったし(だから何)。
広河隆一は何故いままで悪事を隠し続けられたのか
2019年 02月 01日
広河隆一が実は女性の敵らしいという話は、昔からDAYS JAPAN周辺では周知の事実であったという話を、DAYS JAPANにボランティアで長年関わっていた女性ライターが書いたブログ。
人権とか正義とか平和といった概念と、今回明らかになった常軌を逸した性犯罪常習者の側面が彼とその組織の中でどう折り合っていたのか、どうにもイメージ出来なかったんですよ。
(ペーパーメディアの方の週刊文春に掲載された記事はウェブに出ていた情報よりも更に数段おぞましいらしいです。怖いんで読むのは止めておきます)
色々な関連記事を読んでみてなんとなく出来てきたイメージとしては
1)「DAYS JAPAN」誌や「チェルノブイリ子ども基金」の掲げる社会正義が明快であり、熱烈な支持者層を形成していた一方、言説のありようとしては決して主流派ではないため、広河隆一という偶像が破壊されることで、これらの社会正義が日本社会において退潮することを危惧し、誰もが見てみぬふりをしていた。
2) フォトジャーナリズムの世界で生計を立てる、立てたい人々にとっては広河隆一に逆らうことは仕事を失うリスクに直結する行為と思われたため、やはり見て見ぬふりをしていた。
3) 被害者となった女性たち自身もまた1) の思考を内面化し、自分に向けられた広河隆一の性犯罪があたかも犯罪ではないかのように振る舞ってしまった。
というような構造かと思いました。
では広河隆一にとって人権とか正義というのは一体何だったのか? 単に女性を食い物にするための道具だったのか? そこはよくわかりません。
何か教訓を引き出して終わりたいのですが、うーん、なんだろうなあ。
広河隆一と彼の会社が、カルト集団的な側面を持っていたということは言えると思うんです。何らかの大きな正義を掲げて、強力過ぎる権力を持った支配者が君臨している、社会からちょっと距離を置かれた集団。でしょ。
シンプルに、「そういう集団には近づかない」というのが、特に若い女性にはすぐにも実行出来る身の守り方ではないかと考えます。
プラド美術館展を案内してきました
2018年 05月 02日
「絵がわからない」
という苦手感を退治しました。
「どうだった?」
「面白かったです!」
よっしゃあ。
「久しぶりに講義聞けて楽しかったです」
4年ぶりか5年ぶりだもんな。
「加藤先生に世界史習いたかった」
ごめん、教免持ってないわ。
彼女たちはクラシック音楽にはそれなりに通じていたので、この時代(宗教改革VS対抗宗教改革)のカトリックとプロテスタントの違いを説明するのに、双方の教会音楽の違いを、パレストリーナとバッハやヘンデルをスマホで再生して理解してもらったり。もちろん、そのためにヘッドホンと延長ケーブルも持参したり。
トニック、サブドミナント、ドミナントの和声を説明して機能和声音楽とは何かを教えたり。
昨日のプレイリストはちなみに
<カトリックの音楽>
- 1) 枝の主日のアンティフォナ:ホサナ(詩篇23)
- 2) ミサ通常文:キリエ
- 3) グロリア
- 4) ジョヴァンニ・ダ・パレストリーナ:ミサ・ブレヴィス キリエ/グロリア/クレド/サンクトゥス/ベネディクトゥス/アニュス・デイI/アニュス・デイII
<プロテスタントの音楽>
- 1) J.S.バッハ:カンタータ140番「目覚めよと、われらに呼ばわる物見らの声」より「レチタティーヴォ 彼は来たる、まことに来たる」
- 2) 同「アリア いつ来ますや、我が救いの君」
- 3) 同「レチタティーヴォ さらば我がもとに入れ」
- 4) 同「コラール グローリアの讃め歌 汝に上がれ」
- 5) J.S.バッハ:カンタータ147番「心と口と行いと生活で」より「アリア 助け給えイエスよ われもまた汝を言い表し」
- 6) ヘンデル:メサイアより「第4曲 かくて主の栄光はあらわれ」
- 7) 同「第16曲 おおシオンの娘よ、おおいに喜べ」
- 8) 同「第17曲 主は羊飼いのごとくその群れをやしない」
- 9) J.S.バッハ「マタイ受難曲 第17曲 コラール 我はここなる汝のみもとに留まらん」
そうそう、会場内でのグルチャコメント弾幕には新しい可能性を感じましたね。
私からは解説、参加者からは自由な感想がリアルタイムで絵の前で飛び交うんです。
オーディオコメンタリーより面白いんじゃないかな。
みんな就職して働いているんですが、普段の生活が仕事しかないぶん、こういう世界への渇望も強まっているようです。
今月はあと1回、来月にも1回、既に「かとう(元)先生と行く美術展ツアー」の開催が決まっています。
写真家の横木安良夫によるkaoRi氏批判がこれまた熱い
2018年 04月 12日


荒木経惟に対する元モデルたちの告発についての評論家や編集者たちの言い訳が情けない
2018年 04月 11日

ならその「私写真」を売るなよ。
制作プロセスは「プライベートだからカネ払えない」で、成果物は商品として大々的にマスメディア通して売り捌くというのは二枚舌でしょ。アートとしてどうしても「私写真」を撮りたかったのなら、それ売る必要無いよね。もうインターネットある時代だったのから、インターネットにアップするだけで収益事業にしないやり方もあったし、その方がピュアだよね。筋が通るよね。
それにさ、荒木経惟が妻を撮ったケースと、プロモデルとして活動している人を撮ったケースを「私写真」でまとめるのは詭弁ですよ。貧乏サラリーマンが奥さんを撮影して私家版の写真集作るのと、評論家やマスメディアと結託して大金を稼ぐ大御所中の大御所がフリーランスのモデルを妻の代わりに撮ってカネ払わないのと、「私写真」で同一カテゴリに放り込むのはね。実際、荒木経惟は会社作ってその写真売ってビジネスやってるんだから。陽子さんなんかもしも荒木経惟が先に死んでたら遺産わんさか貰えた立場の人やんね。経済的にも法的にも運命共同体でしょ。モデルになる意味合い違うよね。
それに、共犯者とか言うならちゃんと利益山分けしろよ。相応の取り分を渡さないんなら、それは共犯者じゃなくて、搾取労働ですね。エシカルではないサプライチェーンで製造された工業製品と同じです。児童労働とか搾取工場とか人身売買によって作られた商品と同じもんですわ。私写真。

あるいは、わかってるけど知らないふりをする。
荒木経惟がひどい人かは全世界的な関心事ですよ。日本を代表する作家として大手オークションハウスでも売られているし、世界各地で回顧展も巡回した。ウィーン分離派美術館なんて凄いとこでね。
その荒木がビジネスマンとしてパートナーを搾取していたかどうかは、例えばユニクロやアップルやH&Mがサプライチェーンに児童労働・搾取労働を入れていないかどうかと同じくらい大事な話。
アーティストにもクズは多いのは事実かもしれない。でもアーティストだからクズでも許されるなんてことはありません。アーティストだろうが企業だろうが社会的影響力の大きな事業者は、その影響力のサイズに応じて社会的責任を問われ、クズならこいつらクズやんと言われなければならない。
でないと、世の中が進歩せんからね。

「私写真は終わらなければならない」とか「女たち、女たち、女たち」とか「射程」とかのポエム語でごまかしてんじゃねーよ。
自分が経営者だったとして、部下がモデルを不当に扱っていたのが発覚したらどうする?
自分が中間管理職だったとして、外注先がモデルを不当に扱っていたのが発覚したらどうする?
自分が外注業者だったとして、現モデルの権利が守られていない現場に居合わせたらどうする?
これはそういう話です。
良識ある市民として、あるいは企業の社会的責任として、速やかに然るべき対処をして会社と自分を守らなければいけない。それが当たり前ですよビジネスパーソンなら。そしてアートはビジネスなんだから。これはビジネスモデルとしてダメダメでした、もう終わらなければ、じゃなくて、そもそもビジネスとして論外でしたと言わないと。それを知ってて今まで黙ってたなら、黙ってた私もクズでした出直しますと素直に言わないと。
これは有名人バッシングとかじゃないんです。
親事業者が下請業者を不当に扱った案件。
あるいは技能実習生の労働搾取に類似の案件。
荒木経惟は有名人だからバッシングされているんじゃないですよ。有利な立場を利用して不当なビジネスをしてきたから非難されているんです。
それが許された時代だった?
んなわけ無いでしょ! やられた方は苦しんでいた。やった方を取り締まる仕組みが無かったからやり得だった。それだけです。
単純な思考実験してみましょうか。
A) 荒木経惟がモデルに性的虐待をせず、妥当な報酬を支払って作品制作をした。
B) 荒木経惟がモデルを性的に虐待し、妥当な報酬を支払わずに作品制作をした。
どっちが社会に「良さ」を生み出す行動ですか? その「良さ」の量は2018年と1998年で変わりますか?
1998年だろうが2018年だろうが、性的虐待も搾取も無い方が良い世の中でしょう。なら、そもそもダメ案件だったんです。だいたい1998年なんてフェミニズムやポストコロニアリズムが日本で普及し尽くしてそろそろ飽きられているような時代ですよ。その頃にはもう、親方それはもう止めた方がって周囲が止めなきゃいけなかったでしょ。
言い訳は止めましょう。
まともなビジネスパーソンなら契約書を作るのは当たり前。
年長者として荒木経惟からきちんとした契約書を提示するのが当たり前。
モデルを虐待しないのがプロとして当たり前。は? 虐待しないと撮れない表情がある? それを虐待せずに撮るのがプロでしょ。
ハードな撮影であればあるだけ、モデルの心身の健康と権利と安全に考えられる限りの配慮をし、十分なギャラを払うのが当たり前。
ビジネスパートナーが困っていたら誠実に耳を傾け、誠実に対応するのが当たり前。
当たり前のことをしてこなかっただけ。社会人失格はどっち? ねえ、どっち?








